∞ 移住コンシェルジュの「たかおかコラム」⑪ ∞バンコクから高岡へ—8年半のタイ生活を経て感じたこと

タイのバンコクから富山県高岡市に来て早8か月。海・山・川・食・路面電車・大型ショッピングモール・大仏など、日本の素晴らしさがコンパクトにギュッと詰まったまちで、憧れのローカル移住ライフを楽しみながら、地域おこし協力隊・移住コンシェルジュとして「繋ぎ役」を担う日本人、和田 庸(ワダ ヨウ)です。
8年半の長きタイ駐在生活により、日本の作法を忘れ去ってしまいながら、そんな自分を温かく支えてくれるまちのみなさんのやさしさのおかげもあり、今日も元気に楽しく生きております。
そんな素敵なまちと人とを、たくさんの方とお繋ぎすることが私の使命です。
なぜ高岡だったのか?
私がタイに渡ったのは、ホテルマンとして東京の本社から、タイでオープンする支店のホテルの立ち上げを任されたことがきっかけでした。
最初は数年の転勤のつもりが、気づけば8年半。
それほどにタイでの生活は刺激的で、人との出会いや経験の一つひとつがかけがえのない財産になっていきました。
そして気づいたのです。「移住」という行為そのものが、人生の幅を広げてくれることに。
縁のない土地だからこそ、一期一会の出会いが生まれ、自分の視野や価値観を大きく変えてくれる。
その体験をもう一度、日本で試してみたい。そんな思いが私を高岡へと導きました。
そのためには20年勤めた会社を辞めて、転職をする必要があったのですが、いろんな葛藤の末選択したこの道に、一切の後悔がないということだけは申し上げておきたいところです。

タイと日本のギャップ、そして「浦島太郎問題」
8年半、タイ生活にどっぷり浸かっていた私は、日本に帰ってからの生活に正直戸惑いました。
1分も遅れない電車、ほとんど停電しないまち、徹底されたルール、どこまでも清潔な公共空間。
それらのすべてが当たり前である日本は、改めて「世界有数の整った国」だと痛感させられます。
一方で、多少の不便を「マイペンライ(気にしない)」と笑い飛ばしていたタイのゆるやかさが恋しくなることもあります。
完璧な日本社会の中では、時に息苦しさも感じるのです。
私はこの感覚を、竜宮城での時間を経て地上に戻った浦島太郎になぞらえ、「浦島太郎問題」と呼んでいます。
日本で生まれ育ちながら、長く海外にいたことで、どこか「自国のリズム」に戻りきれない。
それでも、この葛藤すら新鮮に感じながら、日本での新しい暮らしを楽しんでいます。

高岡で実現したいこと
移住コンシェルジュとしての活動では、これまでに100人以上の移住希望者とお会いしてきました。
その一人ひとりに異なるストーリーがあり、その出会いすべてが私にとって貴重な経験となっています。
ホテルマン時代から大切にしてきた言葉があります。
「思い出は心の宝」
これからも、高岡というまちを舞台に、たくさんの人と出会い、思い出という「心の宝」を積み重ねていきたい。
まだ「浦島太郎状態」の私ではありますが、このまちの温かい人々に支えられながら、今日も元気に過ごしています。
「移住」とは、単に住む場所を変えることではなく「人生の新しいステージ」を迎えることだと考えています。
高岡での暮らしを通じてそのことを日々実感しています。
これからもこのまちで、多くの縁と学びを重ねながら、時に「移住の難しさ」を分かち合いながら、それを乗り越えて感じる「移住の楽しさ」について、一人でも多くの方と語り合えたらと思っています。
10月25日(土)には、高岡大仏横にあるamida coffeeさんにて、移住者交流会を主催させていただきます。
( 「第1回ラテアートでつながる移住者交流会」(高岡市))
https://smout.jp/plans/24945
この交流会をきっかけに、高岡で多くの移住希望者の方や、すでに定住された方、そして地元の皆さんが気軽に集える「よき交流の場」をどんどんつくっていきたいと考えています。
今後もこちらで、移住や地域に関する情報を発信してまいりますので、ぜひご注目ください。
